「慈悲」の三つの章

  ①浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

  (歎異抄・第4章)

  ②一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第5章)

  ③ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第6章)

 歎異抄の第4章から第6章の三つの章は「慈悲」についての教えです。慈悲とは「救いの働き」のことです。救うのは仏であり、われらは救われるだけの身です。決して救う身ではない。仏とわたしとの関係がはっきりすることが「救われる」ということですから、救う救われるの関係をはっきりさせるために「慈悲」についての三つの章がここにまとめてあります。

 まず、第4章は「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」。聖道門は人間の心を磨いて仏の心にしようとする。くず石はいくら磨いてもダイヤモンドにはならない。人間の心への期待を捨てなさいと教えています。仏の心と人間の心、この区別をはっきりさせなくてはならない。仏の心を経験するということがあるから「仏々相念」といって、仏とわたしとの間に心の対話が成り立つ。

 第5章は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。父母兄弟、わが妻、わが子も、この生でたまたま縁を結んだとはいえ、無量劫以来の積みし悪業の結果としての宿業の身をもって生まれてきた「無間の罪人」どうしであることに変わりはない。いずれも仏の救いを待つ身で、わたしが救うことなどできない。親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきりしています。

 また、第6章は「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」。世の習いで師と弟子ということはあるが、ともに念仏を称える身にまで育てていただいた尊い仏弟子であるから、間違っても師匠が救ったなどということはない。「救う」仏と「救われる」わたし、この区別がはっきりすることが「救われる」ことです。このように読めば「慈悲」の三つの章が領解できる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-11 12:09 | 歎異抄の領解 | Comments(0)