二つの「大切の証文」

  ①弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  ②善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします。

  (歎異抄・後序)


 歎異抄の著者・唯円は「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり」といって、真実信心をいただいた親鸞の心境を端的に示す言葉二つを記録に残している。これによって、あなたの信心が正しいか正しくないかを判断する「目やす」にせよというのです。歎異抄は刃物のように鋭い。大様に読んではいけない。

 さて、最初の証文。如来とは光であり、光は智慧であり、智慧とは「そくばくの業をもちける身にてありける」という自覚です。無量劫より積みし悪業の蓄積としての宿業の身との自覚が起こったのは「たすけんとおぼしめしたちける本願」による。煩悩は煩悩を見ない。それゆえ煩悩である。見えないはずの煩悩が見えたことが智慧をいただいた証拠になる。最初の証文はそういう教えです。

 二つ目の証文。煩悩とは「思い通りにしたい心」です。それがどんな思いであろうと「思い通り」が善で、「思い通りにならない」ことが悪です。だから、煩悩には善悪がある。善悪がないと煩悩は成り立たない。しかし、善悪を区別するのが人間の頭だから、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」とは、善悪の煩悩をなくすことはできないが、存知せず、すなわち善悪に縛られない、と親鸞は表明しているのです。善悪に縛られないとは善悪に縛られてもいいということも含んでいます。これが心が自由になった証拠です。

 最後に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」とは「俗」です。「念仏」(智慧)は「聖」です。現代は「聖と俗」の区別がわからなくなった時代ですが、聖とは「まこと」、俗とは「そらごとたわごと」です。唯一絶対の真実があると信じ、真実を求め、真実に近ずく仏道という生き方、信仰態度があることがここに示されています。あなたの人生は仏道になっているか、との厳しいご化導です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-06 06:17 | 歎異抄の領解 | Comments(0)