法水は謙敬の谷に流る

  一三五、驕慢の高き嶺には、知恵の法水とどまらず。
  弥陀の大悲は悪人のためなれば、我が心に流れ込む知恵の水なり。
  この如来の法水入り満ちて、仏法の湿潤なき我が心を潤し給う。
  然れどもこの水は我慢心の嶺にはとどまらず。

  又曰く。謙とは自ら満たざるを云う。へりくだると和訓す。
  謙をまもれば、知恵も福徳も自ら我が身に集り来ること、
  低き所え水の集るが如し。
  我れもの識り顔のものには人が教えねども、
  謙りて尋ぬる時は、人は好んで教えてくれるから也。

  (香樹院語録)  

 世間は俗で、仏法は聖です。はっきり区別しなくてはならない。聖は価値があり、俗は価値がないと決めることが信仰に入ることです。世間に価値はないのだから価値のないことで悩む必要はない。後生を明らかにするための短い命を大切にしたい。さて、驕慢は(世間では)自信ともいって、生存競争を生きる世渡りの知恵であるが、世間で通じる知恵も仏法の世界ではまったく役に立たない。世間は嘘とハッタリが効くが、仏はすべてをお見通しだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-23 06:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)