一念とは仏の心なり

  一一八、伊勢四日市江戸屋にて御泊りの節、
  藤山藤七と云う同行参上して、
  私におきましては、一念の信一念の信と仰せらるれば、
  我等凡夫の一念のように、心得誤りておりました処、
  段々御聞かせをいただければ、
  如来様の一念であったと云うことが、
  ようよう此頃お知らせを蒙りまして御座ります、と申し上げるる。
  師の曰く。そこえ気がついたか。

  (香樹院語録)  

 「わかった」というのは(本当の)悟りではない。悟った「わたし」がいる。「わたし」が偉くて悟る。これは「無我」ではない。迷いを翻すのが悟りであって、迷いが迷いを翻すことはない。必ず翻される。翻されて迷いを迷いと知る。だから「わかった」というのは本当の悟りではない。「わたし」だけがいて「仏」がおられない。「仏」がおられないから「仏」にはなれない。どこまでも「わたし」しかいない。「わたし」しかいないことを「救われない」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-22 06:24 | 香樹院語録を読む | Comments(0)