逃ぐるものを執えておき給う

  二三、或る人、御前に参りたれば、
  酒杯を賜りて仰せに。
  さあ、一杯飲め。この酒飲んだら、
  いやでも極楽まいりせにやならぬぞよ。

  (香樹院語録)

 この法語には「「摂取とは逃ぐるものを執えておき給う」こと也 」と題がついている。二十代は「わかりたい、わかりたい」の一心でしたが、それから四十年、いくら聞いても、いくら聞いても飽きるということがないのは不思議です。仏さまから色んなことを教えていただきましたが、それでもまだ肝心なことを教えていただいていないような感じがして、なにを教えていただけるのだろうと思うとワクワクします。最後まで仏さまはわたしを手放さないということなのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by ナナシ at 2017-06-20 12:09 x
一心は如来の決定心であり、自分の心ではありません。
如来はなぜ五劫思惟兆歳永劫のご修行を止めなかったのだろうと思います。それはそこに常没のわれらが居たから、止められなかったのだと味わっています。如来は、必ず助けると決心し、覚悟し、完遂され、今もご苦労をされている。自分自身、今は充電の時節かなと思い、生活から聞いております。形を通さないと心が分からない。形は有難いものであります。念佛もおろそかであります。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-06-20 15:15
> ナナシさん
生まれるとは形を取る。法を聞くために生まれたのだから、法を聞けさえすれば、どんな形でもいい。境遇に不満はない。幸いに法を聞くための寿命はいただいたので、この古着はもういらない。「どう生きるか」は関係なくて、「なぜ生まれてきたか」を明らかにしなくてはならない。「なぜ生まれてきたか」がわかれば、後生が明るい。いつ死んでも、やるべきことはやり終えている。全休
by zenkyu3 | 2017-06-20 08:38 | 香樹院語録を読む | Comments(2)