聞かせに来たのか

  二四六、越後にてのことなり。
  ある時師の御法話終りし後、
  両三名の同行のうちつれて師の御前に出で、
  品々進上して有難い有難いと、各々領解を述ぶ。
  師は之を黙して聞き給いしが、
  みなみな退散の後傍の人を顧み給いて、
  今の人等は己れに聞かせに来たのか、なにしに参ったのじゃ。
  と仰せありきと。

 (香樹院語録) 
 

 ここで描かれている「両三名の同行」こそ多くの門徒の姿でしょう。「品々進上して有難い有難いと、各々領解を述ぶ」ることはしても、自らの内心を糺してもらおうとはしない。まことに「なにしに参ったのじゃ」。竹内先生は「仏法は自己保身させるためにあるのではない。自己保身を破るためにあるのだ」と教えられましたが、これがお弟子さんたちにはわからない。

 自分の心が一番大切で、自分の心が傷ついたり、鬱々してしまうと、さぁ大変だとなる。なんとか心が明るくなるようにしなくてはとあわてふためく。これを「自己保身」というのです。自分の心にすっかり縛られて、自分の心の奴隷に成り下がっているのは、あたかも、子を溺愛するあまり子に振り回され、かえって子をダメにする過保護の親の姿です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-15 06:27 | 香樹院語録を読む | Comments(0)