歎きに似たる驕慢

  一八一、我が胸をよくしてから仏に向わん、
  心底を正してから仏を頼まんなど思いおらば、
  百年を経ても出来ざる也。
  人毎に我れはよき同行なりと、
  人に呼ばるるようになりたけれども、
  なることの出来ぬはあさましやなどと悲しむは、
  これ歎きに似て、まことは驕慢の沙汰なり。
  誰人にもせよ、ただ仏の願力を聞きたし、
  御慈悲を聞きたしとばかり思うべき也。

   (香樹院語録) 

 反省はどれほど深刻でも自分の視点でしかない。反省して自分を改善できると思う心が驕慢である。機の深信とは仏の視点だ。ありのままの自分の姿を仏に見せていただく。本当の自分を知ったことは大きな喜びだ。機の深信は歎きでも絶望でもない。自分に絶望する人は「これ歎きに似て、まことは驕慢の沙汰なり」。竹内先生は「機なげき」を「卑下慢」と教えられた。反省する姿は世間向け。上手に格好つけられないと歎いているだけのことだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-01 06:45 | 香樹院語録を読む | Comments(0)