めでたく往生せり

  四六、越後大地震の時、
  かねて師の御教化を受けし老婆、
  鍋を持ちて門口を出でんとする時、
  家倒れて其の下になり、
  いよいよ今かいなと云いて死す。
  師是れを聞き給い、芽出度往生せり、
  と仰せありき。

  (香樹院語録)

 仏教は出家であれ在家であれ世間を捨てる。竹内先生は「仏法を世渡りの杖にしている」といつも弟子を叱っておられた。信心の人は身はまだ世間にあるが心は世間を捨てている。それを「即得往生」という。身はまだ世間にあるから「往生」とはいわない。往生は即ち成仏、修行の終わりであり、完成であるから「めでたい」という。死んでどこかに生まれて、なにかをしようという話ではない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by minao0306 at 2017-05-27 18:20
お久しぶりです。最近、またブログの方を拝見させていただいています。ひとつ質問があるのですが、よく竹内先生の出会いの事が話題になっていますが、私も仏教の師を求めて禅宗の坐禅会や浄土真宗の講話を聞きにいきますが、これだと思える師に巡り会えません。一生出会うのは無理なのかなと今は諦めてもいます。何を手がかりに師を探せばよいのでしょうか。未だ相変わらずの生活で将来に不安と迷いの日々で苦しくて仕方ありません。
のーさん
Commented by zenkyu3 at 2017-05-27 21:52
> minao0306さん
仏々相念という言葉があります。師と弟子が出会うのは仏と仏が出会うのです。信がなければ善知識には会いません。仏がわからないからです。仮に信心の人が目の前にいてもあなたに信がなければ善知識には会いません。いても気づきません。全休
Commented by minao0306 at 2017-05-28 10:17
自分の思い通りにならない現象が起こると「神も仏もない」と自暴自棄になるのですが、やはり切羽つまって苦しくなると「南無阿弥陀仏」を称えてもいます。歎異抄の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて」の信でしょうか。仏さまが助けて下さる、「摂取不捨の利益にあづ」かれる、それは信というより期待のような気がします。「仏法を世渡りの杖にしている」と厳しいご指摘がありますが、信というのは、余程の覚悟とある種の覚醒体験がなければ開かれてこない世界のような気がしてなりません。それとも南無阿弥陀仏を称えて本当に開かれてくる世界なのでしょうか。信はどうやって獲得していくのか、ご教示願えればと思います。
のーさん
Commented by zenkyu3 at 2017-05-28 11:28
> minao0306さん
「自分の思い通りにならない現象」が仏さまです。竹内先生は「仏を手ごめにする」と仰いましたが、「自分の思い通りにならない現象」をあなたは思い通りにしたいと努力している。「自分の思い通りにならない現象」はあなたの根っからの傲慢さを教える仏さまの慈悲ではありませんか。ありがたく頂きましょう。全休
Commented by minao0306 at 2017-05-28 22:20
おっしゃる通りです。「自分の思い通りにならない現象」を思い通りにしたいと頑張って頑張ってへとへとになっていました。「思い通りにならない現象は傲慢さを教える仏さまの慈悲」とても響いてきます。思い通りにならない現象をそのままいただけたらと思います。ありがとうございました。
のーさん
by zenkyu3 | 2017-05-26 06:57 | 香樹院語録を読む | Comments(5)