ただ聞くばかりと喜べ

  二九一、願力無窮にましませば、
  罪業深重もおもからず。
  仏智無辺にましませば、
  散乱放逸もすてられず。

  一生罪を造れども障りになるとも仰せられぬ。
  思い切って罪の沙汰無益なり。
  十方浄土中、唯有一乗法、無二亦無三。
  聖道の人々は一衣一鉢の身となりて、
  生々世々難行苦行してさえ悟られぬ悟られぬと歎き給うに、
  この私は愛妻愛子の我がままながら、
  心つくして聞くばかりで往生すると思わば、
  今日より仏法三昧になるべし。
  三昧とは、それに心を止めて余のことを思わぬこと。
  余人のよしあしを心にかけず、
  我が後生ばかり安堵せば、
  この世ばかりにあらず無量劫の本懐満足なり。

  (香樹院語録)   

 仏法は事実に立つ。事実とは"いま""ここ"のことです。"いま"は"いま"にいては見えない。"ここ"は"ここ"にいては見えない。"いま"を見る眼は未来にあり、"ここ"を見る眼は彼岸にある。"いま""ここ"を見る眼を仏眼といい、"いま""ここ"にあるわれらの眼ではないから、"いま""ここ"が見えたら「如来回向」というのです。仏の眼に見えるわれらの事実を「罪業深重」「散乱放逸」といい、ありのままの事実を見せていただいたから、われらは事実を事実と受け入れて、もうジタバタしない。聖道の人はこれを「悟り」というが、われらは「心つくして聞くばかりで往生する」から、これを「信心」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-17 06:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)