たのめば早や助かるの勅命なり

  二七八、頼め助けようとのたまうは、
  たのまぬ先に助かるように御成就の南無阿弥陀仏。
  爾れば頼んだら助かられようか、
  また助かるまいかの分別のある筈はない。
  たのめば早や助かるの勅命なり。

  二七九、助かりたいと思う我等の心は疎なれども、
  助けたいの大悲の念力に引きよせられて、
  必ず必ず疑いは晴るるほどに。
  危げなく此世を暮し、御称名を励まっしやれ。
 

  (香樹院語録)

 たのめば早や助かるの勅命なり。だが、たのむことができない。なぜか。たのむと"自分"が死ぬからです。無我になる。仏になってしまう。だから、たのめない。それゆえ、仏は頼め助けようとのたまう。仏にしたいからです。助けたいの大悲の念力に引きよせられて、必ず必ず疑いは晴るる。御称名を励まっしやれ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by ナナシ at 2017-05-10 08:40 x
念佛を申す、申せば必ず耳に聞こえる。

たとえ聞こえなくても、身骨に響く。こう思います。

念佛を聞く、これがすべてで、それは終わりのないはじまりのような、そんな気がします。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-05-10 10:06
> ナナシさん
「助かりたいと思う我等の心は疎なれども」とはまことにそうだと思う。南無阿弥陀仏を称えると仏が見えるのではない。自分が見える。仏が自分を見えるようにするから、南無阿弥陀仏を称えると自分が見える。自分が見えることはあまりにつらい。つらいけれど「助けたいの大悲の念力に引きよせられて」南無阿弥陀仏がだんだんありがたくなってくる。自分の心から離れて仏に近くなっていく。自分の心は一切の衆生、自分の心を救うことは衆生救度になる。南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2017-05-10 07:06 | 香樹院語録を読む | Comments(2)