師にすかされても後悔なしとの信仰

  一五〇、邪見と云うは、御教化あれども、
  其の道のほかに我が見識を立つるを云う。
  よく思うて見れば、其の善知識の
  仰せの如く思われぬものを本とするゆえに、
  心の底へ聞こえぬなり。
  思えても思われいでも、
  善知識の御化導は決定して真実なり。
  これを離れては地獄一定なり。

  (香樹院語録) 

 わが見識を立てることを邪見という。仏法に見識などいらない。信心は頭ではわからない。いくら勉強しても信心はわからない。仏のお心と心が通じ合うのに勉強はいらない。信心の人、善知識は仏のお心と心が通じているので、本当に信心が分かりたければ善知識を探す。信心は人から人へと伝わるものだからです。弟子は師の人格から仏のお心を感じることができる。そのために仏は信心の人をつくる。善知識はわれらにとっては人格をもった仏、還相の菩薩です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-06 21:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)