それが仕おおせたのじゃ

  二九四、安政四年八月十日、
  了信、師の御病気御伺いのため参上して
  御枕許に手をつきければ、師曰く。
  どうじゃ、どうした。

  信曰く。私はこれまで持ちならべて居りました信心も安心も、
  今は何処えかいって仕舞いまして、ただもう御喚び声一つが、
  杖とも力とも憑みきって居るばかりで御座ります。

  仰せに。それが仕おおせたのじゃ。

  曰く。難有う御座ります。
  年久しく御化導を蒙りまして、
  何とも御礼の申し上げようも御座りませぬに、
  今日までは唯口先ばかりで申し上げて、
  御胸をいためましたは、仏智回向の御なしわざと云うことが、
  知られませぬからで御座りました。

  師の仰せに。もう仏智回向がすめたか。
  それがすめぬ故久遠劫より迷うているのじゃ。
  それでもうよいと云うて、捨てておくのではない。
  聞いては喜び聞いては喜びして居るのじゃ程に。

  (香樹院語録) 
 

 この法語のタイトルは「信心も安心もなし、ただ御助け一つ也 」です。香樹院師は「それが仕おおせたのじゃ」と了信を認めている。ありがたそうなものはもうなにもなく「御喚び声一つ」だけが残っている。信心がすっかり出来上がったというのでしょう。最後の教えは「聞いては喜び聞いては喜びして居るのじゃ程に」と。聞いても聞いても心が空(から)だからはじめて聞く心地して聞くたびに喜ぶ。子どものように喜んで、あとになにもない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-29 06:27 | 香樹院語録を読む | Comments(0)