少しばかりで了解は出来ぬ

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  四五、秀存師ある時、「真心徹致するひとは、
  金剛心なりければ、三品の懺悔するひとと、
  ひとしと宗師はのたまえり」とある和讃の御意を尋ね給いければ、
  師はやや暫らく黙し給いて後、
  智慧第一の舍利仏でさえ、四十年の間聞いても分らぬ仏法を、
  少しばかり聞いて解了しようとは、無理なことじゃ。
  とのたまいければ、秀存師はただ、ヘイと云いて退出ありしを、
  傍見しまいらせしと、栗尾太助の話。

  (香樹院語録) 

 分別とは頭でつかむ。頭でつかんだ事実は観念であって事実ではない。仏法は分別以前の事実に立つ。この一点が仏法です。自分に都合のよい事実の解釈は頭の数だけあるが解釈以前の事実は一つしかない。考えても考えても考えている限りは事実には到達しない。いま起きていることを解釈するからです。考えを止めた一瞬がそのまま事実です。この無分別の一瞬を経験すれば求めるものなどなにもなかったと知る。これを経験させるために仏法はあるのです。われらはなに不足のない事実を生きているが心はいつも事実から遠く離れた処にあって苦しんでいる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by ナナシ at 2017-04-25 12:22 x
仏法は分別以前の事実に立つ。
このお言葉を如来の勅命に従うと頂きました。
また仏法は分かったらおしまいや、と聞いております。
自分は自分の存在理由も目の前のことも何も分かりません。仏法も何度聞いても分かりません。教えの通りにならぬわが身わが心があるばかりであります。
しかし、如来が、我が名を称えよ、必ず浄土に往生させる、と仰るのを聞き、ただ念佛を申す。そこに何度でも帰らせていただきます。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-04-25 17:53
> ナナシさん
われらは理屈で生きているのではない。わかろうとわかるまいと生の事実をいま現に生きている。なに不足なく生かしてもらっていながら文句ばかり言っている。これ以上なにが必要だというのだろうか。どうなれば満足だというのだろうか。思い通りになるなんてことがあるのだろうか。全休
by zenkyu3 | 2017-04-23 21:56 | 香樹院語録を読む | Comments(2)