今宵死ねば今宵が極楽

  三〇、左太沖の詩に、「何必糸兼竹、山水有清音」
  (何ぞ必ずしも糸竹を兼ねん。山水に清音あり)と作りしは、
  世間の人は、糸竹音曲ばかりを楽のように思うが、
  山の奥に世を遁れた身は、世間の楽の音はなけれども松吹く風の音、
  谷の流れの音など、よくよく思えば世の塵に離れたる所は、
  糸竹に優った妙な楽であると、人の知らぬ楽みを詠んだ詩なり。

  今、念仏行者は世の人から見れば、窮屈のことと見ゆれども、
  この御信心を得た楽みは、後生知らずのものや、疑いの晴れぬものの知らぬ楽みで、
  思えば思えば露の命、明日も知れぬ、遠い極楽と思うたは我が誤り、
  今宵死ねば今宵が極楽と思えば、人の知られぬ楽しみのあるのが、念仏行者じゃ。

  (香樹院語録)

 「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」とはどのようなことか。「世の塵に離れたる所は」と暗示するように、「今宵死ねば今宵が極楽」、いつ、どんな死を死んでもいまが極楽、すなわち、いま、すでに心が(娑婆を離れた)極楽にあるというのです。娑婆を離れた極楽から娑婆を見て暮らす楽しみ、娑婆の景色を観光して歩く通りすがりの旅人の楽しみでしょうか。

 信心の人の心はすでに身体から解脱しているから死はまったく問題ではない。心はすでに浄土にあるのだから、あらためて、死後に浄土に生まれる必要もない。いまさら生まれる処などないから「今宵死ねば今宵が極楽」、すなわち、いまが極楽、これを「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」というのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-22 20:41 | 香樹院語録を読む | Comments(0)