無宿善の機

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  五八、『御文』に「無宿善の機は力及ばず」とあるは、
  一向きかずに地獄へ堕つるを無宿善とはのたまはず。
  聞いても聞いても驚かず、地獄へ堕つるを無宿善と云う。

  (香樹院語録)

 心の内側を見ることができなければ信仰にはならない。心が内側に向かない人を無宿善というのでしょう。仏は一人一人の心の中におられるのだから、外に仏を求め回る必要はないし、自分の心を観察するのに知識もいらない。信仰とは自分の心の奥底に降りて行く。光も音も届かないな孤独の深海に降りて行く。そこで仏に出遇う。仏に遇うか遇わないか、それだけが信仰である。仏は救うと誓っておられる。仏に遇わないのはあなたが遇いたいと思っていないからでしょう。他に理由はない。わたしが仏を見ているのではない。仏がわたしを見ているのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by kk at 2017-04-12 11:45 x
よく全休さんは「仏さまは私のことをどのように見ておられるのだろうか」とおっしゃいます。
私にはこれがずっとピンときませんでした。例えば、仮に、としても仏さまの立場が想像できないのです。
ただ先日、「私は自分の父親の心で自分のことを見ているんだな」と、そんなことを思いました。
父や母に限らず、今までに出会った人の心、視線で自分を見ているんだと、
裁く心だったり、刺す視線だったりを自分の心に向けているんだな、と思いました。
Commented by zenkyu3 at 2017-04-12 12:42
> kkさん
子は親の期待に応えたい。子は親の心の中にある自分を見ているのです。親だけでなく、わたしたちはいろんな人に会う。人とは評価です。ときに期待に応えられない自分を卑下したり、ときに認められて喜んだり。どちらも人の評価に縛られている。自分が自分でなくなるのです。人の眼は利害で濁っている。正しくあなたを見ることができない。ときに評価であなたを縛ってあなたを利用している。世間に本当の意味の理解者はいない。あなたを本当に理解できるのは仏しかない。全休
by zenkyu3 | 2017-04-09 23:28 | 香樹院語録を読む | Comments(2)