異時因果と同時因果

  七三、断見、常見  
  断見ーーー因果業報を知らず。地獄極楽をなしと執ず。  
  常見ーーー無常迅速を知らず。他力の方便を知らず。  

  (香樹院語録)

 異時因果と同時因果という。地獄極楽を死後とすれば異時因果であり、現在とすれば同時因果である。極度の精神ストレスが見る世界はまさに地獄であり、死ねば地獄に墜ちると思う。地獄があれば極楽がある。信心の智慧が開く心の世界が極楽であり、現在に感得するから同時因果という。信心がなければ感得できないので、不信の心は未来に生まれるところと観念するから異時因果である。すなわち、現生正定聚は十八願の同時因果であり、未来往生は十九願の異時因果である。

 心が外の世界を見るから内と外は因果関係にある。たとえば、異性を見るのは生殖の準備ができたということであり、金や地位を見るのは欲望に縛られているだけの心とあわせ鏡である。われらは死ねば終わりの命である。死ねば終わりの命が死なない命に出遇うのが信仰である。死なない命に出遇うから安心して死んでいけるのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by ナナシ at 2017-04-04 12:29 x
地獄も極楽も分からない。目の前のこと、あるいは自分自身さえも分からない。これが現実の自分です。

しかし、今すべきことが分かる。それは念佛を申すこと。
いつでもどこでもこれ一つでよい。
選択本願の念佛とは、如来が唯一行を選んで下さったこと、如来のゆるぎない大悲であります。
如何に自分が迷っておろうと、汝念佛を申せ、の
お心は揺るがない。だから訳が分からないまま、ただ
如来の仰せに随順して念佛を聞かせて頂くばかりです。
有難く思います。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-04-04 15:36
> ナナシさん
禅の言葉に不落因果・不昧因果といいます。因果とはわれらの生きる姿であり、因果から逃げればいつまでも因果の犬に追われ、因果を引き受ければ因果の犬は逃げて行く。どんな命もなにかの役回りを引き受けなくてはならない。たまたま「わたし」を引き受けたのだから「わたし」を生きるしかない。「わたし」以外に命はないのだから。「わたし」を引き受けて「わたし」に縛られない。これを中道というのでしょう。「わたし」があるから法を聞くことが出来た。「わたし」があるから「仏」にお遇いできた。南無阿弥陀仏
Commented by ナナシ at 2017-04-05 12:12 x
因果から逃げればいつまでも因果の犬に追われる。本当にそうだと思います。苦悩は抜けない。終わったと思っても、形を変えて、合間をくぐってくるので、逃げることはできない。生きる者は必ず死に捕まる。やはりこの身を引き受けるしかないのだと思います。しかし、自分では到底間に合わない。そこに、初めて大悲本願が届くのでしょう。
因果は宿業の身にまかせて「わたし」はただ念佛を聞く。念佛が本願であり、念佛が如来である、そう聞かせて頂いております。また色々聞かせて下さいませ。
南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-04-05 12:53
> ナナシさん
摂取不捨とは仏のお心の中に生まれる。仏を外に見て拝むのではなく、仏のお心の中に自分を発見する。仏の方から自分が見える。自分の小ささがわかる。小ささに安んじて生きられる満足がある。いつでもコメントください。全休
by zenkyu3 | 2017-04-04 10:44 | 真宗の眼目 | Comments(4)