わが身の事実

  聖人のつねのおおせには、
  「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
  御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、
  善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、
  つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」
  (散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。
  されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、
  われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、
  如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、
  おもいしらせんがためにてそうらいけり。
  まことに如来の御恩ということをばさたなくして、
  われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。

  (歎異抄・後序)

 機の深信とは「わが身の事実」です。わが身の事実に立たせるのが智慧です。智慧とは光、光に遇えば事実が見える。見えなかった自分を見えるようにしてくれるのが光明であり、光に照らされれば自分が見える。自分が誰かがわかる。わかれば自分に満足する。不満はない。不満がないから求めない。求めないから迷わない。自信もなく自分を探して暗闇をさ迷い歩く不安と苦しみからようやくにして解放される。安心する。事実に落着する。わが身の事実を「罪悪生死の凡夫」という。

 救いがない身と教えてくれたのが如来回向ですから、救われないと知ったことが即ち救われたことです。罪悪生死の凡夫とはわが身の事実ですから、事実に行き着けば、そこが到着地です。事実を知らないから、あれこれと機の善悪に振り回される。親鸞いわく「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(歎異抄・後序)と。善悪とは事実についての分別であり、解釈であり、事実から浮き上がった妄念妄想です。事実を知り、事実を受け入れた者には事実の解釈はもういらない。これを無分別とも一文不知ともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-19 09:30 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)