三宝にはなれたてまつる

  罪福信ずる行者は
  仏智の不思議をうたがいて
  疑城胎宮にとどまれば
  三宝にはなれたてまつる

  (正像末和讃)

 仏智疑惑和讃の第三首です。どういうことが書かれているか。仏智不思議は経験できるが、罪福信ずる行者はまだ仏智不思議を経験したことがない。だから、罪福信じる行者の信仰は道徳や哲学のレベルにとどまって信仰に達していない。それを「疑城胎宮」という、と。仏法聴聞していても仏を経験していないから「三宝にはなれたてまつる」という。仏のお心を経験せずに信仰は開けない。

 信仰とはなにか。見えるはずのない自分の心が見える。救われないと見える。見えるようにしてくださるお心はなにか。必ず救うとのお心である。救われないから救われる。理が通らないが、それが弥陀の誓願不思議である。不思議が不思議にとどまれば、それは不思議ではない。不思議がわれらの思議に入り、われに経験されるから不思議が不思議とわかる。だから、不思議を経験しない罪福信の行者は思議の世界にとどまる。まだ信仰になっていない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-17 06:29 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)