信心を得るが肝要なり

  二一八、江州の嘉右衛門、いたく未来のことを苦しみ、
  暑中に越後まで参り汗を拭い拭い師に謁したるに、
  師の曰く、体の踏み出しは出来たが、まだまだ心のふみ出しが出来ぬ。
  マア勝手の方え行って、腹の支度でもした がよい、と。
  嘉右衛門身のおき処なく、未だ後生を思うことの薄きに驚き愧じ入ること甚しかりしと、
  自ら語られき。

  二一九、仏法を聞きわける人はあれども聞きうる人甚だ稀なりとありて、
  聞き分けるが所詮でない。聞いて信心を得るが肝要なり。
  然るに、人は聞き分けるまで骨折れども、わかれば途中にて止めるもの多し。
  かようにては信心は得られず。
  ただ分かりたさを目的にして、その上に聞き得ることを止める人は邪見なり。
  故に、弥陀の名を聞きうるまで聞かねばならぬと合点すべし。

  (香樹院語録) 
 

 法を心の外に置いて知識を学ぶように聞法する人がいる。このような人は根本的に信仰がわからない。このような聞き方をすれば五十年聞いても信心はわからない。心に踏み込んで心に隠している病根を暴き出すようにしなければ心の治療にはならない。それゆえ仏法の知識はむしろ邪魔で、心を照らすように聴聞しなくてはならない。機の深信、内観の念仏が聞法の基本と知るべきです。

 心の深海に降りて行けば見たこともない醜い心を見ることになる。そうすれば少しは信仰に近くなる。そうなると自分の心との凄絶な闘いになる。自我が崩壊する過程に入ったので自我は生き残りをかけてあなたを騙しにかかる。「その道は間違っている。自分を見失うぞ」と。あなたの心の声は郡賊悪獣の声、悪魔の声ですから、うろうろと相手にしてはいけない。

 善知識の言葉を灯りとも頼み、仏の声に耳傾けて、仏の救いだけを信じなくてはならない。「聞いて信心を得るが肝要なり」。聞法歴は長く、それらしいことを得々としゃべる年配者を見ると、聞き方を間違えたまま一生を終えようとしていると思う。信仰は学問ではないのだから、知識の缶詰をたくさん持っていても開けて食べなくては腹はふくれない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-05 19:28 | 香樹院語録を読む | Comments(0)