これなりで御座ります

  九四、美濃田代町のおせき、水手桶さげて、御庭前へ参りたるとき、
  師俄かに、おせき、極楽参りはどうじゃ。 と仰せらる。
  おせきは、はい、これなりで御座りますと、直ちに申し上げたれば、
  仰せに。おせきはよく聴聞したなあ。

  (香樹院語録)

 美濃田代町のおせきの「はい、これなりで御座ります」は懺悔である。わたしの全否定である。懺悔は機の深信であるから他力の信である。救われない自分を見せていただく。見えたことが如来回向である。信心の智慧ををいただいた身であるから香樹院師は「おせきはよく聴聞したなあ」と印可を与える。救われない者を救うというのは、救われない自分であることを見えるようにして仏は救う。

 それが仏のお慈悲です。一度自分が見えれば二度と迷わない。見えないから自分に迷う。見えたから「はい、これなりで御座ります」とおせきは懺悔する。「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情をすてずして、回向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」(正像末和讃)。自分が見えるという智慧を回向して救うのが仏のお慈悲です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by ナナシ at 2017-01-31 12:39 x
これなりで御座ります、のお言葉、有難く存じます。

どうにもならないことを、どうにもならないと知ること。

これが如来の智慧であると思います。現実を憎むわが身、

わが心のまま、大悲に託します。合掌 南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-01-31 21:06
> ナナシさん
いつも仏の方から自分の心が見えている。だから心に巻き込まれない。心に巻き込まれないでいることを正念といい、信の一念にいつでも正念に立つ。これが信相続の相です。全休
by zenkyu3 | 2017-01-31 06:27 | 香樹院語録を読む | Comments(2)