浄土真宗の信心

  一四二、我が機を信ずると云うは、御法を受くる機なり。
  悪人を正機として、助け給うが弥陀の大悲なれども、
  凡夫の自性は、如何ようにも我が身あさましと思われぬ故、
  この我が身あさましと思う心まで、如来の方より成就して與え給う也。
  されば、かかる者を、弥陀の願力にて御助けに預り、
  必ず往生をとぐるぞと、まことの信心は生ずる也。
  この如く我れあさましと信ずる心と、
  弥陀如来なればこそと信ずる心との二種の深信は、
  他力より與え給う者なれば、是れを他力の信と云う。
  この他力の信は、弥陀の本願を聞き開く時に頂くなり。
  これを釈迦如来は、「其の名号を聞きて、信心歓喜せよ」と教え給う。
  浄土真宗の信心と云うは、是れより外になしと心得べき也。

  (香樹院語録)    


 自分の顔を見ることはできない。見るときは鏡を用いる。わが心はわが心を見ることはできない。見えないから迷っていられる。我が儘でいられる。苦しんでも理由がわからない。心が見えるように智慧を与えて、迷いから救い上げるのが仏の慈悲です。だから、心が見えたことが信心をいただいたことです。心が見えることを懺悔といい、見えるようにして救ってくれた仏への感謝を讃嘆といいます。懺悔は機の深信であり、讃嘆は法の深信です。

 救ってくれた仏のお心の中にいて心の浅ましさを謝る生活を信心といい、信心は必ず二種深信を内容としています。初めて救われた経験を信の一念といい、仏との値遇体験を原点にして信心が深まっていく生活を往生といいます。どのように深まっていくかといえば、心への執着が浄化されていく。浄化されていくことの心の様子を多歓喜といいます。このようなことはわたしの努力の結果ではないので他力の信といいます。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-28 06:45 | 真宗の眼目 | Comments(0)