おれはおれの後生がある

  一九三、 京都西六條の人明信寺宝洲、若年の頃師に謁し、
  私は後生に大事がかかりませぬ、と申し上ぐ。
  師はただおれはおれの後生がある。その方は其方で心配したがよい。
  一人一人の後生じゃ。他人のことは、おれの知ることでない。
  と、一言の下に郤けられけり。明信寺それより、
  いよいよ来世のことは己が一大事なりと云うことに打ち驚き、
  師に随うて遂に信を獲られき。

  (香樹院語録)


 信心をいただくことは過去世までの宿善の開発であるから、宿善のないものは現世で信心をいただくことはない。これは仏の御はからいです。だから、親鸞は「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証・総序)と言われたし、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄・第6章)とも言われた。生は無生無滅の仏心の自覚を目的としていて、三世の流転は仏心の自覚まで延々と続く。

 ありがたくも人に生まれ、人としての苦難に出会うのも仏の御はからいと喜ばせていただける。後生が一大事となるのも仏の御はからいです。だから、わたしにとっての信心は自分が喜ばせていただくことであって、人が喜ぶのは仏の御はからいで、わたしがどうするという事柄ではない。わたしが喜ぶのを見て人が喜ぶということもあるかもしれないが、それもまた仏の御はからいです。「往還の廻向は他力による」(正信偈)と教えていただいている。わたしの手柄などというものはなにもない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by けんけん at 2017-01-27 08:35 x
信心をいただけない人は、多分本当に降参していないのかもしれない。言い方を変えれば、自力でなんとかなっているうちは(と思っているうちは) 必要ないのかもしれないとも思う。 全ての人が仏のお心に気づければ素晴らしいことだが、現実はそうはならない。だから非願というのかもしれない。
Commented by zenkyu3 at 2017-01-27 09:12
> けんけんさん
降参するのも仏のお慈悲です。降参すれば樂になるが失うものがあると考える。それが我執なのでしょう。死ぬときはすべてを失う。プライドどころではない。絶望と孤独と恐怖の中で死ぬ。こんな経験はトラウマどころではない。地獄行き間違いない。だから辺地往生がどれだけ有難いか。いずれ降参する。なら、早いうちがいい。いつ死ぬかわからないのだから。全休
by zenkyu3 | 2017-01-27 06:26 | 念仏のすすめ | Comments(2)