疑網の関所

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)


 一の世を捨てる。これは心の堀の外のことだから比較的容易にできる。形だけなら念仏も称える。形は心に影響しないから真似ならなんでもできる。二の疑網を捨てる。これは我と頼む心の本丸だから容易にできない。心のあり方を問われる。触って欲しくない心の柔らかい部分に触れてくる。これは形ではすまされない。本気である。真剣である。命懸けである。だから、みな逃げる。念仏は称えても心の本丸には踏み込ませないぞと頑張る。

 疑いの心はいう。そもそもなぜ心が悪いか。悪いなら正せばいいではないか、と。このままの救いならこのまま救ってくれよ。それが仏のお慈悲だろう、と。これは二十願の心だ。信仰は事実である。道徳でも規範でもない。信仰に、どうしろ、はない。いまの心をありのままに映す鏡が仏のお心である。心が見えるようにしてくれるのが智慧で、見えれば迷わない。救われない心が見えることが救いである。智慧を与えて見えるようにして救うのが仏のお慈悲である。

 心が見えたら、見えたことが仏である。しかも、大切なことは、見えても見えなくても仏のお心の中であるから、見えたらいい、見えないから駄目ではなく、見えるも見えないも、それが事実だということです。汝自身を知れ。知らないから苦しみを受ける。小さな我を満足させることは容易ではない。そんな我に縛られて生きる人生も容易ではない。仏を信じることは容易であるが、我を捨てることが容易でない。我はあなたを手放さないからだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-24 06:14 | 香樹院語録を読む | Comments(0)