摂取不捨の畳の上

  二〇〇、畳の上では手ばなしになっていても、
  ねても起きても気づかいはないが、
  高い木の上え登って手をはなして見たがよい。
  落ちて死なねばならぬ。
  同じ手ばなしなれども居所がちがうからじゃ。
  摂取不捨の畳の上にすまいして居るからだは、
  行往坐臥が如来の加護ゆえ、あぶなげがない。

  (香樹院語録)   


 「摂取不捨」とはなにか。仏のお心の中にいて、仏の方からわたしが見えていることを「摂取不捨」という。見えているから迷わない。迷いようがない。なにが見えているかというと「わたしの心」が見えている。これしか仕様のないわたしの心、ありのままの心が見えている。ありのままを「事実」という。事実を見せて救うから「智慧」という。自分の心に執着があると都合の悪い事実は受け入れない。受け入れずに都合のいい「解釈」をする。事実をどのように解釈するのも勝手であるが、大切なことは、解釈は事実ではないということだ。

 自分の心を仏の眼で見せていただく。仏の方から事実を見るので「如実知見」という。自分に期待を持っている人は自分に都合の悪い事実は受け入れずに解釈して事実を曲げる。事実を受け入れたくないので、どう都合のいいように解釈しようかと悩む。我執があるから誤魔化す。信心の人は事実をそのまま受け入れて不満がない。自分に期待がないからだ。この話は譬えである。「高い木の上」とは驕慢である。我執がある。我執がなければ「摂取不捨の畳の上」にいる。これ以上落ちようがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-23 06:39 | 香樹院語録を読む | Comments(0)