聞の一字

  二八三、浄土真宗の法門は、聞の一字をもって他力をあらわし給うなり。
  弥勒に先立ちて成仏するは、聞の一字にあり。
  『大経』に「聞其名号」とあるは、凡夫の知恵や分別にて聞きわける聞にあらず。
  我れ知りわけ聞きわけたるを聞いたるように思う故、増上慢を起すなり。
  因縁さえあれば五つ六つの子供でも、聞きわけらるるが浄土真宗の御法なり。
  信心を得たるものは却って聞きたく思えども、
  うかうかして居るものは早や心得顔になりて居る也。
  信心は体の如く、聴聞は食物の如く、称名念仏は息の如し。
  右、時々仰せられき。

  (香樹院語録)  


 「聞く」というのは仏のお心の中にある「わたし」の姿です。「わたし」が全否定されている。「わたし」が自己主張しない。しかし、「信の一念」を経験すると「得た」という驕りが生じる。「得た」という思いに執着して仏のお心の外に転落する。聞いた信心を知識にして「わたし」の持ち物にする。竹内先生は「仏を手ごめにする」と仰った。聞いた「わたし」が仏より偉い者になるのです。信の一念を経験しても信がはっきりしない間は何度も何度もこれをやる。十八願を知っても二十願の自力に再び転落する。五年、十年、何度も何度も転落する。

 転落するが、一度経験した「信の一念」に何度も何度も立ち返り、仏のお心の中の自分を見せていただく。自ずと懺悔され、さらに喜びが深まっていく。これが信相続の内容です。信がわからなくなったときは辛く、本当に恐ろしいが念仏が救ってくれる。「果遂の誓い(二十願)、良(まこと)に由(ゆえ)あるかな」(教行信証・化身土巻)。「聞く」位置に謙(へりくだ)って念仏すれば「得た」という驕りも自然に落ちて、信心がさらに深まっていく。これを「聞く」という。一度信を獲たら後は何もないということではない。信の一念に行が確立して、本当の聴聞が始まるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-20 06:39 | 香樹院語録を読む | Comments(0)