人間に生れぬる大事

e0361146_18545600.jpg  二九九、聞いて楽しむ身の上が、云うを手柄にするぞおかしき。
  云わぬを手柄と思うなよ。聞き得たままを繕ろわず云うて、なおしてもらえかし。
  聞いて覚えて、云うことに骨折る人ぞあわれなれ。聞きうることぞ大事也。
  聞き得た上の楽しみは、拙き言葉ありながら胸のありだけ語りあい、
  御慈悲喜ぶたのしさは、覚えた人は味しらず。
  忘れとうても忘られぬは如来をたのむ心也。

  三〇〇、安政五年正月二十三日、師京都に於て寂したまう。寿八十有七。
  御遺言に曰く。人間に生れぬる大事は、ただ後生の一つ也。誰れかこれを知らざらむ。
  然れども、よく知る人甚だまれなり。仏祖これがために大悲の胸を傷めさせたもう。
  ただ願くは念仏の行者、一味の志をもって、自信教人信のつとめをなして給わらば、
  予がなきあとの喜び、何事かこれに如かん。
  得やすくして得難きは他力の大信、守り難くして守りやすきは信の上のつとめ也。

  (香樹院語録)


 仏とは永遠に変わらない生きた働きであるから、われら一人一人の上に働きとして現れて、仏として経験されるものです。冷暖自知ともいいますが、仏は経験した者にしかわからない。しかし、仏を経験するのに知識はいらないし、経験したことを話すのにも知識はいらない。事実は事実だからです。しかし、仏の経験は「自信教人信」で伝わってきた仏教の伝統であるから、先達が積み上げてきた経験と教義を学んで、有縁の人が仏を経験できるように手助けすることが仏道です。

 人にもわかるように説明する工夫は自らの信心をはっきりさせ、仏との対話をさらに深めることにも役立ちます。だから、信を語ることは自慢でも利得でもなく、仏の慈悲がこの世に現れるためのお手伝いであり、わたしにとっては仏になるための予行練習になっているのです。しかし、中には信仰を生きるための心構えのように思っている人もいて独りよがりの信心から抜けられないでいる。あるいは、世間の辛さから逃げる場所として信仰が必要な人や、人生になんの疑問もなく教養のように仏教を学んでいる人もいる。

 無明という病を治す薬はあっても薬は飲まなくては効き目がない。薬の効能書きを読むばかりでなかなか服用しないのは、本当は苦しくないのでしょう。自覚症状がないのはかえって病が重篤だということもあります。信の一念とは「心が見えた」ということです。見えることが救いとなるのは心を離れて心の影響を受けなくなるからです。心が見えることを「智慧」といい、見えるようにして救うのが仏のお慈悲です。これを「廻向」といいます。薬を飲んで病が治った人は助けられたご恩があるわけですから、薬の効能と健康の有り難さを周りにも伝えはじめるのです。そのようにお育ていただいています。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-18 07:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)