疑いが晴れる

  二七四、懸鼓庵問うて曰く。一念帰命のところ如何に候や。
  師曰く。一念帰命とは疑い晴るるばかりなり。
  問う。なにに疑いはるるにて候や。師曰く。本願の不思議に疑いはるる也。
  また問う。其の不思議とは如何。
  仰せに。助かるまじきものを不思議の本願で助けたまうことを、不思議とは申すなり。
  懸鼓庵問うて曰く。それを目的にして信ずるか。師の曰く。そうじゃ。

  (香樹院語録)


 疑いのないのが仏の心だから「疑いが晴れる」とは仏の心になった。心が明るく素直になった。人の心ではなくなった。人の心よりもっと深い所に眠っていた高次の心、仏心が目覚めた。意識の届かない不思議の領域から仏の声が届いた。色も形もない仏心が自覚された。われらの小さな意識の領域に仏心が入って来た。これは明らかな救いの証拠である。わたしの心より高次の心、一切衆生の身体に埋め込まれていた無生無滅の仏心が今に目覚めた。このことを「疑いが晴れる」という。

 仏の心がわたしの主体となってくださって、古いわたしの心はただの外面になった。主体が入れかわった。このようなことは努力してできることではない。だから「お助け」という。われらが生活する小さな意識の世界の外からやってくるので「不思議」という。一人一人の心の底に眠っていた仏心からの呼び声をわたしたちはいつも聞いていた。ただ気にも止めていなかっただけだ。だから、いまも届いている仏心の呼び声を聞くだけで、われらは仏に等しい者になる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by TEN at 2017-11-04 16:39 x
はじめまして。

>一切衆生の身体に埋め込まれていた無生無滅の仏心が今に目覚めた。

この一文を見た時に「おやっ?」という気持ちになり、コメントさせて頂きました。
ご本願喜ばせて頂けるようになってから、さまざまな先生の色々な文章を読みましたが、これは「柏原祐義・禿義峯編」とありますので、両先生がお書きになった解説なのでしょうか?
読ませて頂いて、自分が本願まことを知らされた時のことを思い出しました。「腕時計のような精巧な機械が私の知らないうちにすでに私に収められていて。そこに電池のような動力が投入されて、ずっと動かずに止まっていた機械が動きだした。」そのような感覚を覚えました。すべてが自動的で私の意思に関係なく、「すべて阿弥陀様に仕組まれていた!」とさえ思いました。私は自分の身の上に起きていることをただ傍観するだけ。電力にあたるものは大慈悲心でした。大慈悲心が飛び込んできた時に迷いの命が終わって、本願を信じる命が始まった。その時の体験ほど不思議なことはありませんでした。体験は人によって違うようですし、上手く説明できないのであまり他人には言っておりません。ですが、「この文章をお書きになった方は私と同じような体験をされたのかな?お話ししてみたいなぁ」という気持ちに駆られて、ついコメントしてしまいました。

いまは「主体が変わるのが真宗です」ということを有縁の方にお伝えしているだけです。これは人によって感じ方が違うというようなものではないと思っています。真宗は「聴聞に極まる」と言われます。「聞く」とは「主体が入れかわる」ということでした。「私」が主人公だった人生劇場が、「阿弥陀様」が主人公のドラマに変わりました。それを「疑い晴れる」と仰っていると頂いています。

この文章と出会えたことを嬉しく思います。
ありがとうございました。
自分のことばかり書いてしまってすみません。
また他の記事も読ませて頂きたいと思います。
Commented by zenkyu3 at 2017-11-04 17:55
> TENさん
はじめまして。「香樹院語録」にわたしの拙い領解を述べさせていただいています。お気づきのことがありましたら、またコメントください。全休
by zenkyu3 | 2017-01-17 13:26 | 香樹院語録を読む | Comments(2)