弥陀に待たれたる身なり

  三、ある人、私はいかほど聴聞致しましても、
  どうも、つかまえ所が御座りませぬ、と申し上げたれば、
  仰せに。 そうであろう。
  おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ。  
   

  二一六、未だ疑いはれねども、
  聴聞して疑いはれたいと思うものは、
  弥陀に待たれたる身なり。
  余所から帰る子をまつは親なり。子は待たるるなり。
  他人はまたぬが親は早う帰ればよいと待つ。
  帰る時は村端え出てまつ。
  弥陀は極楽の東門から出て来て、今や今やと待ち給う也。

  (香樹院語録)


 われらはいつも自分の心と対話しながら生活している。自分の心の欲求を満たすための人生だからです。さて、聴聞とはなにか。「私はいかほど聴聞致しましても、どうも、つかまえ所が御座りませぬ」。この人、なにを知りたいのか。なにを目的とした聴聞だろうか。聴聞とは、自分の心ではない、仏のお心を知りたい。自分の心ではなく、仏のお心と対話できるようになりたいが「聴聞」です。

 一度も経験したことがない仏のお心は、仏のお心を経験した人から直に教えていただく。知らないのだから心を素直にして聞けばいいが、なかなか素直になれない。素直になれないことがすぐにわかる。心を空にできない。聞くだけになれずすぐ自分の意見を持ち出す。すぐ頭でわかろうとする。つかまえたら観念、持ったら知識、仏の上に居て、生きて働く仏を遠ざける。観念、知識と対話することはできない。だから、香樹院師は「おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ」という。

 仏のお心と対話する心の回線を開通するには、心のアンテナを高くして、仏から届く声、一度も聞いたことがない仏の声を聞かなくてはならない。耳を澄まして、周囲の雑音を排して、ただひたすら聞く耳だけになって、孤独に耐えて、深い静寂の中で仏の声を聞く。たとえ微かでも聞こえたら仏のお心とつながる。聞こえたらもっと聞きたくなる。聞くのが楽しくなる。

 仏のお心と対話ができるようになるまで、さらに聴聞が続く。仏の声がもっと聞きたい。時々聞こえていた声がいつも聞こえているようになる。これを「憶念の心つねにして」(冠頭讃)という。対話の相手が自分の心から仏のお心に変わる。仏のお心がわたしの主体になってくださる。生まれて来て、これ以上の喜び、これに優る尊さはない。思えば、われらは誰に強制されたわけでもないのに法を聞こうとする。あなたも「弥陀に待たれる身」なのです。

 南無阿弥陀仏


 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by kk at 2017-01-19 14:25 x
仏さまは、一緒にいて、遇いたい方、そう感じました。
Commented by zenkyu3 at 2017-01-19 16:24
> kkさん
わたしは自分で自分を救うことができないとわかったので、助けてくださいと、嫌々、念仏しました。喜んで念仏できない、本当に我性の真っ暗闇の中にいた者です。全休
by zenkyu3 | 2017-01-16 09:38 | 香樹院語録を読む | Comments(2)