「このまま」の救い

  香樹院師、美濃田代町のおせきが、
  水手桶下げて、御庭前へ参りたるを見られ、
  にわかに「おせき、極楽参りはどうじゃ」と仰せらる。
  おせきは、その手水桶さげたまま、
  「はい、これなりで御座ります」と直に申し上げたれば、
  「おせきはよく聴聞したなア」と仰せられたという。

  香樹院師は決して人に許さぬ人であった。
  ところがここでは、「おせきはよく聴聞したなア」と仰せられている。
  しかもこの「これなりで御座ります」が自己の肯定であったならば、
  師は決してこれを許して居られないであろう。
  「これなりで御座ります」が自己の肯定の如くであって、
  実は全的否定である。
  「そのまま」の仰せの聞こえずめの中にあっての「これなり」であるから、
  その態度は常に否定である。
  「これよりほかに仕方のない」自分を常に見せて頂いて居るのである。
  これよりほかに仕方のない自分が常に見えるゆえに、
  「そのまま」の仰せが常に聞こえるのである。

  (松原致遠著「わが名をを称えよ」より)


 自分の顔は自分には見えないように、自分の心は自分には見えない。見えないものを見えるようにしてくださるのは如来廻向の仏智です。仏の方からわたしが見える。「これよりほかに仕方のない」自分を見せていただく。心を離れて心が見える不思議、仏法はこれに尽きる。自分の心を見たこともないのに「このまま」の救いなどという人がいるが、「このまま」が自分なら「このまま」と許すのも自分である。それでは救いにはならない。そもそも許す自分が救われない当の本人である。

 仏の慈悲は全否定してから救う「そのまま」の全肯定である。わたしを超えてわたしに臨むお心の中にわたしはわたしを、「これよりほかに仕方のない」わたしを発見する。見せていただくのは「仏の眼」で見せていただくのである。この一点がぎりぎりのところだ。生きていても安心がない。なぜ、心はいつも寂しいのか。わたしが誰だかわからない。どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからない。親にはぐれて迷子になった子どもは親に見つけてもらうしかない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-06 08:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)