業ありて人なし

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。
  悪事(あしきこと)のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。
  故聖人のおおせには、「兎毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
  宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。

  (歎異抄・第13章)

  常一主宰の我があるわけではなく、
  身口意の三業のその当体が我全体である。
  泣き、笑い、語る行動そのものの外に我はない。
  我という個体があるわけではなく、
  有為転変の行があるばかりである。
  身口意の三業が我であるとして、
  その三業の所行を、もし更に深く内観するとすれば、
  我をあげてそくばくの業があるばかりである。
  その三業を生みだす宿業があるばかりである。

  「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり」と仰せられた。  
  この親鸞とは、そくばくの業である。
  親鸞という以上、我ではない。
  我によって眺められたものである。
  自らを業道流転の迷いの果ての実業の凡夫と感じたる、
  そのなまなましき実感の表現である。
  この最愚低下の者こそ、
  弥陀をして五劫に思惟せしめたものという、
  悲痛なる感動のあらわれである。
  この業が自らの手を以てしては、
  如何ともすべからざるものであるという痛感である。

  (松原致遠著「わが名を称えよ」より)

 休みを利用してしばらくぶりに読んでいる。当時は「回向」も「宿業」も、もちろん「智慧」ということもわからなかった。なにがわかっていたかというとなにもわかっていなかった。それでも文章に力があって、伝えたいことがあると強く迫ってくる。もちろん致遠師には伝えることがある。もう、当時のようには読めないが、この本の強い感化力によって、わたしは念仏しようと思い立ったのです。法座を訪ね歩き、善知識を探して、竹内先生にお会いできたのは幸甚だった。

 さて、この書が伝えているのは「見える」ということ、この一点だろうと思う。見えることを「智慧」というが、見えるようにしてくれたのは仏です。救う心は救われない心と離れていないのであるから、救われない心が見えたら、それが救う心を知ったということです。煩悩は煩悩を知らない。知らないから迷っていられるということがある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-05 21:14 | 松原致遠の文章 | Comments(0)