自己本位の心

  「よく汝が心を護れ、心をして放逸ならしむなかれ。」と
  釈尊が仰せられるのは、
  よく心の親の慈悲心を示されたものである。
  心の親の見そなわす前に、
  自らを慎ましく省みることなくして生きるということは、
  灯りなくして暗夜をゆくが如しと仏も説かれている。

  この心の親の、大きな心の中にある自らを見出したとき、
  必ず懺悔のこころが生まれる。
  何故に懺悔のこころが生まれるかというと、
  人間はすべて自己本位の心をもって居る。
  むしろ自己本位のこころそのものが人間であるから、
  それは自分の顔の如く、自分の目には見えない。
  自分の目に見えないほどに、それは根強いものである。

  この自己本位の心が迷いの根本であり、
  一切の罪業、罪悪、煩い、悩みの生まれて来る大根であり、
  それは宇宙の真理、真実の法に背くものである。
  もしこの心をもって終始すれば、それは自己を滅ぼす道であり、
  その生涯をして全然意味なからしめるものである。
  それは宇宙の真理に背くものであるから、
  真実に生きることを許されぬものなのです。

  (櫛谷宗則編松原致遠著「わが名を称えよ」柏樹社1989年刊)


 松原致遠師の「わが名を称えよ」は現在絶版となっていますが古書としては手に入るようです。二十の半ば、内山興正老師の著書に出会い仏教を学び始めましたが、行としての禅にはついに縁づかず、十年ののち機が熟したのでしょうか、この本に出会って念仏をしようと決心しました。この本に出会って半年後、竹内維茂先生をお訪ねしました。

 この本の編者である櫛谷宗則師は内山老師の直弟子です。念仏に導いてくださった致遠師の文章をもう一度読み直してみようと思います。致遠師、宗則師の法恩に報いたいと思うからです。さて、自分の心が見えることを「智慧」といいます。この智慧を獲て本当の仏道が始まります。智慧によって自分の心を語れば、それは自ずと「懺悔」となり、仏を語れば「讃嘆」となるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-02 14:46 | 松原致遠の文章 | Comments(0)