わが名を称えよ

  そして、念仏申せば自分が見える、
  自分が見えるということは自分の煩悩が見えるということが、
  おぼろに感じられて目の前に一本の細い道が開けてきました。
  それが先生のおっしゃっていた智慧の念仏、内観の念仏でありました。
  内観とは自分の煩悩が照らされることです。
  自分の煩悩が照らされて、その煩悩を阿弥陀様にお任せして、
  流れるままにひっつかず手放しているのが往生浄土の道である
  というようにお説き下されたのは、致遠先生しか私は知りません。
  念仏申せば内観深まり、内観深まればいよいよ念仏される、
  申しながら深まりながら申しながらという、
  そこが、ただ一つの眼目に違いありません。
  そしてそれが私を生かし、
  今日を新たに歩ませて下されるもとの力になっているのであります。

  (榎本栄一)

 榎本栄一氏は世に知られた仏教詩人ですが、上記の文章は松原致遠師の著書『わが名を称えよ』(柏樹社・1989年刊)の序文として書かれたものです。短い文章ですが、わたしが伝えたいと思っている念仏のことが「内観の念仏」として要領よく簡潔に述べられています。誇張ではなく、これで「わたしの言いたいことは全部」と言ってもいいくらいです。

 当時、仕事に失敗してなにもすることがなかったわたしは、この本を三か月間、朝から晩まで毎日読んで念仏をする決心をしました。三か月後には竹内先生を訪れ、さらに三か月後には信体験を獲たことを考えると、わたしを念仏に導いてくれた本当に本当に大切な本です。それほど大切な本ですが、残念ながら今は廃刊になっています。

 南無阿弥陀仏

 NHK教育テレビ「こころの時代」
 信心の風光をうたう(詩人榎本栄一)



Commented by ルネッサンス at 2017-01-01 11:26 x
明けましておめでとうございます。
8年前内観を始めたころは僅か数秒間自分の気持ちに気づいているだけでしたが、なぜか私がお念仏させてもらう身になり日々内観の念仏を続けております。
お酒の味が分からない私も、一級品の全休ブログの味わいは格別です。不思議なことに私の生活とこのブログの記事がシンクロしており、生活の中でその日の問の答えが
記事の中に用意されています、不思議なことです、凄いことです。
まだ自力の念仏の域を出ませんが、こちらのブログと共に歩ませていただきます。今年もよろしくお願い致します。
南無阿弥陀仏

Commented by kirinn at 2017-01-01 21:11 x
あげましておめでとうございます。
kirinnもよろしくお願いいたします。
Commented by zenkyu3 at 2017-01-02 09:43
> ルネッサンスさん
われらは意識のつくる世界にいて、それが当たり前のように疑わないが、心はもっともっと深くて、それを科学ですら無意識と教えている。仏教では不可称不可説不可思議というのでしょう。意識したものしかないと決めて狭い世界に閉じこもっても無意識の広い大地の一点に意識の城が立っている事実に変わりはありません。不可称不可説不可思議の世界は意識の光の届かない闇の世界であるように恐れるのですが、仏教は不可称不可説不可思議の世界を光の国だと教えている。だから、現在という意識野が闇で、未来という無意識の世界が光だという風に逆転しなけければならない。
内観とは深く広い無意識の心の深層に降りていくことだと思うのです。知っていることを誇るのではなく、知らないことに心素直になる。これが内観ということだろうと思うのです。われらは煩悩を煩悩とも知らずに生きてきた者です。妄念妄想を真実だと信じていまも生きている者です。いまでは煩悩の小ささを少しは教えていただきましたが、もっともっと広く深く、明るいお心に心素直になって心を光に向けて開かなくてはならない。広く深いお心は小さく狭いわたしの心に収まらないから、心を開いてお任せする。わたしの心を一度は手放すのです。きっと信をいただくでしょう。全休
Commented by zenkyu3 at 2017-01-02 09:51
> kirinnさん
新しい年が始まりましたね。日々の生活はお念仏です。お念仏することがわたしたちの仕事です。お念仏が退屈なのは信心がないからです。なにをしていても仏さまの前でしていると思ってください。これが信心をいただくということです。仏さまと一緒だとなにをしていても楽しくなるのですよ。今年もしっかり聴聞しましょう。全休
by zenkyu3 | 2017-01-01 01:03 | 念仏のすすめ | Comments(4)