念仏には無義をもって義とす(2)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)  

 竹内先生は「はからいを捨てる」ことを水練に喩えてこう説明された。「溺れまいとするから溺れる。なにもしなければかえって水に浮く。浮くことがわかると、あとは、どこまでも泳いでいける」と。水とは事実。事実を恐がって、事実に溺れまいともがくのが自力なら、なにもしない、これは仏の御はからいにお任せするのでしょう。お任せすると事実を受け入れられる。事実が恐くないように浮かばせてくれたのが他力。浮かばせる他力を知ったのが信の一念で、どこまでも信心が深まっていくのが不退転です。


 では、「はからいなし」とは具体的にどういうことか。水練の譬えでいえば、なにもしない。仏道でいえば「頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない」ということです。水に勝とうとするから水に負ける。水に負ければ水が助けてくれる。どんな悩みも放って置くとやがて消えてなくなる。やがて消えてなくなるものをいじくり回して立派な悩みに仕立て上げることを「はからい」という。悩みは悩むことで解決するのではなく、放って置くことで解決する。悩みは放って置くと消えてなくなる。これが「はからいを捨てる」ということです。

 南無阿弥陀仏
Commented by 畑のかえる at 2017-12-13 06:47 x
「はからい」のことを何回も何回もこのブログで聞いてきた。そして何回聞いてもわかったようでわからない、このわからないということがわかった。その時、前よりわかった気持ちになっていい気分になった。今も、このことを自分の言葉で言い表したいがわたしの言葉では無理だ。
Commented by zenkyu3 at 2017-12-13 08:27
> 畑のかえるさん
はからいとは思慮分別ともいいますが、竹内先生は自己保身の知恵と言われた。いつも完璧に自己保身したいが因も縁も一瞬も止まらない。だから完璧など永遠に来ない。最後は自己保身する身が死ぬ。変化するものは真実ではない。永遠に不変なのは涅槃だけです。死んでしまえば涅槃も意味はない。生きているうちに涅槃に接するから、浄土の光を見るから、仏からの道が開けるから、だから未来が明るい。これが現生不退です。死んだ後の話ではない。涅槃とは思慮分別の滅するところです。生きているうちは思慮分別はなくならない。生きるとは思慮分別することだから。なくす必要もない。あっても相手にしなければないのと一緒です。このように知ることを現生正定聚といいます。仏ではないがいつでも仏になれる。仏になる身に定まるといいます。人生に求めるものはない。人生を捨てなくては仏道にはならない。いつでもコメントください。全休
Commented by 畑のかえる at 2017-12-14 04:29 x
生老病死の身において、はからいは付きもの。はからいから離れて生きていかれない。それがわかっているつもりでも、困ったことが起きれば、腹を立てたり、人を困らせたり傷つけたりの日々だ。かつて全休さんが、「今の今、その時々の心を観察することが大切」と言われたことが思い浮かぶ。いつもありがとうございます。
Commented by zenkyu3 at 2017-12-14 07:38
> 畑のかえるさん
見えていればよいのでしょう。直そうとすることがはからいです。怒りを相手にすると必ず怒りに負ける。相手にしないで見ている。見えていることが離れていることです。全休
by zenkyu3 | 2017-12-12 06:16 | 歎異抄を読む | Comments(4)