自然法爾章

  自然というは、もとよりしからしむるということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききてそうろう。

  ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。

  無上仏ともうすは、かたちもなくまします。
  かたちもましませぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。

  かたちもましまさぬやうをしらせんとて、
  はじめに弥陀仏ともうすとぞききならひてそうろう。
  弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

  (自然法爾章)


 正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞八十六歳のときの文書で「自然法爾章」と呼ばれています。関東から上京した弟子の顕智が三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点について尋ね、それに答えた親鸞の言葉を顕智が聞き書きしたものです。自然法爾章には「仏とはなにか」が書いてある。すなわち、「南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」(仏のお心の中に生まれさせて、無上仏へと育て上げる)自然の働き、それを「弥陀仏」と呼ぶのだというのです。

 凡夫を仏にする働きは「かたちもましませぬゆえに」目に見えないが、働きを経験し救われた経験を持つ信心の人には、それがどんな働きなのかがわかる。その働きを経験したお釈迦さまは救いの働きを人類に示して「弥陀仏」と呼ばれたのです。救いの働きは、それと知らなくてもみなに平等に働いていて、その働きを信じて乗託すれば、働きが働き出す。それが必然だから「しからしむる」という。よって、弥陀仏はただの観念ではなく、経験可能な働きだと明らかにしているのが「自然法爾章」なのです。

 南無阿弥陀仏


Commented by ほういち at 2017-06-15 14:33 x
ようやく、自然法爾の語に対する納得いく説明にであいました。ありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2017-06-15 18:08
> ほういちさん
はじめまして。またコメントください。全休
by zenkyu3 | 2016-11-23 08:12 | 三帖和讃を味わう | Comments(2)