一一四、学と云うは、
  我が身にその業の出来ることを、学と云う也。
  然るに、道を学び道を行うを学と思わずして、
  道の道理を究め、徒らに是非を争うを学と思う。
  ここが孔子の教ゆる、実の学と云う所にあらず。
  よりて学と云うは、之を師に聞くの初めより、
  其の教を受けとりてこれを身に行うて学ぶを、
  学とすと知るべし。

  (香樹院語録)

 哲学と信仰は違う。哲学は知識、信仰は経験。知識は金のように所有して自分を誇る。頭がいいと自分を誇りたい人は知識のために法を学ぶ。新しい知識を喜ぶばかりで仏を経験したいとは思わない。救われないという心の渇きがないからだ。学ぶうち、それらしい説明ができるようになると、それが信心だと錯覚する。旅行のパンフを読んだことと旅行したことはまったく別物だが、読んだことが経験したことのように思い込む。そんな人はたくさんいる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-26 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一六三、我等は親子夫婦の恩愛によりて、
  三界の繋縛を受けたるものなれば、
  今生に於ては割愛と云いて愛を切り捨てねばならぬことなれども、
  ただ浄土真宗は、妻子が可愛ければいよいよ聴聞して、
  恩愛のままにて往生する也。

  (香樹院語録)

 この法語には「捨てられぬものを捨てよとは申されぬ」と題がついている。出家は身を捨てる。在家は心を捨てる。在家は身は捨てないから「親子夫婦の恩愛」はそのままである。そのままでいいというのが在家で、出家は煩悩を否定するから煩悩に捕らわれてしまう。あってもなくてもいいとなれば煩悩を相手にしない。煩悩はあっても煩悩の影響を受けないから「心を捨てる」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-25 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心を責めよ

  一五三、赤尾の道宗は常に常に我が心よく聞け聞けと、
  われと己が心に油断してくれなといわれき。
  龍樹菩薩は不負心と教えたまいて、
  我が心に負けぬようにせねばならぬと示し給い、
  蓮如上人は我が心にまかせずして心を責めよとのたまう。
  然れば信を得ぬものも、また信を得ても煩悩強盛なるものは、
  自ら我が心を責めねばならぬ。

  (香樹院語録) 

 自分の心の望むようにすることが「心の自由」のように思っているが、自分の心に騙されて、そのように思わされているだけのことです。自分の心の「下僕」になり下がって、心が喜びそうなことはなんでもしようというのでしょう。自分の心に縛られて「心の自由」を失っている。仏法は「自分の心の主(あるじ)」になる。信心の智慧をいただけば心を離れて心が見える。心を離れて心が本当に自由になる。これを「信を得る」という。心に心を許してはいけない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-24 06:20 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

法水は謙敬の谷に流る

  一三五、驕慢の高き嶺には、知恵の法水とどまらず。
  弥陀の大悲は悪人のためなれば、我が心に流れ込む知恵の水なり。
  この如来の法水入り満ちて、仏法の湿潤なき我が心を潤し給う。
  然れどもこの水は我慢心の嶺にはとどまらず。

  又曰く。謙とは自ら満たざるを云う。へりくだると和訓す。
  謙をまもれば、知恵も福徳も自ら我が身に集り来ること、
  低き所え水の集るが如し。
  我れもの識り顔のものには人が教えねども、
  謙りて尋ぬる時は、人は好んで教えてくれるから也。

  (香樹院語録)  

 世間は俗で、仏法は聖です。はっきり区別しなくてはならない。聖は価値があり、俗は価値がないと決めることが信仰に入ることです。世間に価値はないのだから価値のないことで悩む必要はない。後生を明らかにするための短い命を大切にしたい。さて、驕慢は(世間では)自信ともいって、生存競争を生きる世渡りの知恵であるが、世間で通じる知恵も仏法の世界ではまったく役に立たない。世間は嘘とハッタリが効くが、仏はすべてをお見通しだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-23 06:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一念とは仏の心なり

  一一八、伊勢四日市江戸屋にて御泊りの節、
  藤山藤七と云う同行参上して、
  私におきましては、一念の信一念の信と仰せらるれば、
  我等凡夫の一念のように、心得誤りておりました処、
  段々御聞かせをいただければ、
  如来様の一念であったと云うことが、
  ようよう此頃お知らせを蒙りまして御座ります、と申し上げるる。
  師の曰く。そこえ気がついたか。

  (香樹院語録)  

 「わかった」というのは(本当の)悟りではない。悟った「わたし」がいる。「わたし」が偉くて悟る。これは「無我」ではない。迷いを翻すのが悟りであって、迷いが迷いを翻すことはない。必ず翻される。翻されて迷いを迷いと知る。だから「わかった」というのは本当の悟りではない。「わたし」だけがいて「仏」がおられない。「仏」がおられないから「仏」にはなれない。どこまでも「わたし」しかいない。「わたし」しかいないことを「救われない」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-22 06:24 | 香樹院語録を読む | Comments(0)