一子地

  一二七、親ひとり子ひとり、よりて一子地とのたまう。
  親の実がやがて子の実なり。
  名号の大宝が我が物なりと知らせて頂かば、
  嬉しや嬉しやと、憶念称名おさゆべからず。

  (香樹院語録)  

 信の一念に「親の実(まこと)」をいただく。いただいたものであるけれども「我が物」である。「親の実」をもって「親」になる。親に見つけていただいた迷子の子がやがて親になる。仏が仏になる。これほど確かなことはない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-18 06:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

御同行えの御書状

  一三、今度の一大事の後生、
  おのが善悪のはからいをすてて、
  ただ阿弥陀仏に助けられて、往生するぞと信じ奉り、
  念仏申すより外なき也。

  御化導にあい奉り候えば
  ただ己が助かると思うこころになりてと、
  なれぬ身をしらずに、なれることのように存じ候が、
  無始以来の自力にて、
  此度その心に執心のやまぬが不便さに、
  此心は万劫の仇なりと詮はされたり。

  是れによりて
  助かると思う心をまつにもあらず、調べるにもあらず。
  本願に助けらるると、御聞かせにあづかり候えば、
  助かるとなられたが助かるにあらず。
  助からぬものの助かると思いとりて、
  念仏申し候が、肝要の御事と存じ候也。 徳龍

  御同行中

  (香樹院語録)

 この法語には「御同行えの御書状」と題がされています。香樹院師の署名付きの文書です。「御同行中」と宛名がされているように、念仏の核心が誰が読んでもわかりやすく書かれています。繰り返し繰り返し声に出して読んでほしい。わかりやすいからわかるとは限りませんが、それぞれに味わい深くいただくことが出来るのではないでしょうか。

 われらは心を自分と思うから執着する。執着すると支配され苦を受ける。そのことに気づかず迷い続ける不憫さに「心は万劫の仇なり」(心はわたしではない)と仏菩薩、善知識の方々は教えてくださった。教えを信じ、心への執着が落ちた瞬間に仏の心を経験する。仏の心こそが「本当のわたし」なのです。人の心では成仏できない。いただいた仏の心が「本当のわたし」になるので「成仏」といいます。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-17 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  六四、江州草津驛、合羽屋某に対せられての仰せに。
  或ときは往生一定と思い、或ときは往生不定と思う。
  この二つをすてて、ただ弥陀をたのむことじゃ。

  (香樹院語録) 
 

 疑うというのが知性の本質だから仏を疑うのは当然だ。見えない心を経験もせず信ずると言ったら、それは嘘だ。仏がどういうお方かがわかったら信じるというのでしょうが、それは無理だ。知性では届かないから仏智不思議という。こちらからは決して届かないがあちらから届けてくださる。自分が、自分がで、目一杯になった心が空になれば空になった心に仏の心が入ってくださる。


 「往生一定」「往生不定」と、結果を考えているうちはまだ余裕がある。自分の心がもう信用ならない。嘘ばかり。計算ばかり。もう、すっかり愛想が尽きた。世間を騙して生き抜くことは難しくない。しかし、こんな心じゃ生きてる意味がない。このままでは死んでいくことすらできない。仏さまがなにかもわからないが、もうお念仏するしない。こうなったのが「たのむ」ということでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-16 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

南無というは帰命なり

  一 仰せに、「南無というは帰命なり。
  帰命というは、弥陀を一念たのみまいらするこころなり。
  また、発願回向というは、たのむ機に、
  やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。
  その体すなわち南無阿弥陀仏なり」と、仰せ候いき。

  (蓮如上人御一代記聞書2条)

 南無「自分の心」だった心が南無「阿弥陀仏」へと回心する。自分の心と一体だった心が仏にすがって一瞬、自分の心を離れる不思議体験を得る。これが「弥陀を一念たのみまいらする」という宗教的な決断の内容です。また、信の一念に「たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり」。宗教的体験によって得られる「功徳」はどのようなものかというと「自分の心」から離れられた自由です。苦しみは自分の心への執着から出てきた。信の一念に、苦しみの原因である「自分の心」をまるごと離れて、自分の心から救われる。この功徳の味わいが一生を貫く。決して忘れないだけでなく、どこまでも深まっていく。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-15 06:00 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)

頼ませて頼まれ給う仏

  二七八、頼め助けようとのたまうは、
  たのまぬ先に助かるように御成就の南無阿弥陀仏。
  爾れば頼んだら助かられようか、
  また助かるまいかの分別のある筈はない。
  たのめば早や助かるの勅命なり。

  またの仰せに曰く。
  我等の心はかわる心故、
  如来様がすがる南無の二字まで御成就也。
  如来の心で如来えすがる故、機法一体也。

  (香樹院語録)

 弱い心を強くしたいのが自力。生存競争を勝ち残っていくには強い自我(自負心)と他を排する激しい闘争心が必要だ。この心は六道を流転する心で涅槃(心からの安心)を開くことはできない。仏になるための仏心は生存競争を本能とする人の心からは出てこないからだ。絶対に不可能である。それゆえの五劫思惟のご苦労である。ないものはいただくしかないから(われらからすれば)他力という。仏から仏の心をいただくことを信心という。仏の心が仏になるのである。人の心は仏にはならない。

 では、どのように仏心をいただくか。「たのめば早や助かるの勅命なり」。すでに救いの道は十劫の昔に成就している。だから「自分の心」を頼みとして生きてきた生き方を捨てて「仏の心」を頼みとする。南無「自分の心」から南無「阿弥陀仏」へと転ずる。これを「回心」という。これが仏心をいただく救いであるが、「頼め助けよう」のお約束を信じることは強い自我(自負心)と他を排する激しい闘争心のわれらには誠に難信である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-14 06:12 | 香樹院語録を読む | Comments(0)